大頭眞一著

『聖書はさらに物語る 一年12回で聖書を読む本』

工藤信夫(くどう のぶお)氏(精神科医・平安女学院名誉教授)

 

 出版業界の不況・不振が伝えられる中、キリスト教界の出版がいつ途切れるのだろうかと懸念している人々は決して少なくないだろうが、幸いなことに関係者の必死な努力によって、聖書にまつわるかなりの数の本が出版されている。しかしその多くは出ては版を重ねることもなく消えていく。この現象は果たして何を意味するのだろうか。果たしてその内容は真に人々の心に届いているのだろうか。出版社は読者のニーズに応えているのだろうか。誰もが聖書に興味を持っているだろうに。

 この本の冒頭に面白い一文が載っている。

 『(旧約・新約)聖書を知っていますか』(新潮文庫)を書いた小説家阿刀田高氏が出版の動機を「クリスチャンが書いた聖書の本はたいていおもしろくない。聖書を売り込み、信者をふやそうという下心に満ちている。私たちが知りたいというのは聖書がどういう書物かという知識なのだ(以下略)」

 おもしろい指摘である。

 というのも人間はいくら正しい知識が提供されて正論を説かれても、そのように生き得ない存在であるし、むしろ知識や正論が人を高慢にし優越感や裁き心に導くことさえあるからである。

 いや、時にそれは律法となって人を開放するどころか、人を苦しめることさえあるからである。

 40代、約十年に渡ってP・トゥルニエを読む会を主催してみておもしろいことに気づいた。

 毎回レポート提出が課せられるこの学び会で参加者が一番多く反応したテキストは『生の冒険』(ヨルダン社)であったことである。

 この会の参加者は私共に与えられた生が神の冒険であるというトゥルニエの視点に驚き、かつ元気を得たのである。

 もしかしたらこれまでキリスト教界の多くの出版物は人を教え導く律法主義的なニュアンスが多すぎ、多様性に満ちた人間というもの、また人生というものの躍動を平坦化形式化してきたのではないだろうか。

 この点、本書は聖書を「神の物語」と捕らえて、この関係性の中で人は生き得ることを意図していることは興味深いことである。これは最近様々な立場の人が「聖書物語」を様々な角度から書き始めている事実と照らし合わせると、聖書に記された出来事は今の私共の人生に介入し“見えざる道連れ”、その伴走者・同労者であると主張したP・トゥルニエの『人生の四季』(p.149:ヨルダン社)と符合しておもしろい視点である。

 聖書を「神の物語」と捕らえ、私共の人生の四季折々に“私共に語りかけ、私共の人生に介入してくださる御方”として紹介してくださった大頭眞一氏の御労に深く敬意を表す次第である。

 本書の活用に関しておもしろい実例を一つ紹介してみたいと思う。

 大手企業を定年退職された方が夜間の神学校に学び、聖書を一般の人々に伝えたいと思ったものの、それをどういう形にしたらいいものかと模索しておられたが、その方はネットで本書の副題である“一年12回で学ぶ聖書の物語”を探り当て、市の公民館の一室を借りることにした。するとおもしろいことに、キリスト教に興味がありながら教会には足を運べなかった方々が、初年度で4、5人やってきたという。

 色々考えさせられるエピソードである。

 もしかしたら人々は今日でも恐らく世界中のベストセラーである聖書を知りたい、読みたいと願っているのかもしれない。にもかかわらず“これまでのキリスト教”、はなにか人々のニーズに応えかねているのではないだろうか。これは恐らく見えざるキリスト教、またキリスト教界の大きな課題の一つに違いない。

 大頭氏の今後に期待する次第である。