2015_03_01川上 直哉 著 『被ばく地フクシマに立って――現場から、世界から』

書評:小林和夫(KOBAYASHI Kazuo)氏  
(2015年現在、立教大学大学院キリスト教学研究科キリスト教学専攻博士課程後期課程)

ソフトカバーの新書版で、上品な色調の装本、そしてカタカナ混じりのタ イトルといった外貌から、東日本大震災に材を取ったエッセイ調の体験談の ようなものかと勝手に思い込んで頁を繰っていったところ、豈図らんや、ざらざらとした肌触りの、良い意味において非常に読みづらい本である。そし てその無骨な感触と読みづらさこそが、本書の魅力と言えるのだった。 いったいこの不可思議な、どこかつんのめってしまうような読み心地は、 すなわち本書の魅力は、いったい何に起因しているのだろうか、と、つらつら思考してみたところ、一つが「語」の問題であり、もう一つは「構成」に あろうことがどうやら判然としてきた。  まずは、「語」について。著者の川上直哉氏は、本書の中で、一語一語を、執拗なまでのこだわりをもって選別し、決定しようと振る舞っている。

たとえば本書冒頭で著者は、この書のタイトルについて、なぜ「被ばく地」 という語を選んだのか、どうして「福島」ではなく「フクシマ」であるべき なのか、また『被ばく地フクシマに立って』というタイトルそのものに隠さ れた問いとは何なのか、言葉を尽くして説明を試みる(その内容をここに詳 らかにするのは控えるが)。こうした著者の態度は、語の、文の、あるいは 文脈のうちに内在する解釈の自由度を叶う限り最小化しようとする学的な試 みといえる。これによって私たちは、著者の含意を把捉するまではその語の 先へと読み進むことができず、まるでごろごろと石の転がる道を歩くような たどたどしい読み方を余儀なくされるわけである。顧みて私たち、少なくと も私は、往往にして、作為的に「言葉を濁し」がちである。時に主語をあえ て取り払ってかくなる言表が「わたし」のものであるのか別の「だれか」の ものであるのか曖昧にし、抽象的な語彙を弄しては読者に解釈を委ねようと する。川上氏は決してそうではない。躓き、まろびながら読み進むうちに、 記すべきことがらを科学的、客観的に叙述しようとするこの著者の、神学者 としての真摯な佇まいが、ひしひしと伝わってくるのである。

もう一つ、本書の構成についても見てみよう。まず簡単にその構造を紹介すると、

①「フクシマ」における放射能被災の現状および著者川上氏の宗教者、 キリスト者としてのフクシマへの関わり方、いわば態度表明、

② 2014 年7 月、 WCC(世界教会協議会)によって採択された声明文、「核から解放された 世界へ」に至る核問題の歴史的経緯、および「フクシマ」が提示する今後の 神学的可能性、

③フクシマという「現場」と、WCCなどに象徴される「世界」 との融合の果てに見えてくる新たな神学の地平、および未来への提言、

という大きく分けて3 部構成となっており、付録として「私の信仰歴」と題した一文、資料としてWCC声明文の全文和訳が加えられている。特徴的なの は、さまざまなできごと、ことがらが、時系列に沿ってではなく、あえて時間の流れを無視するかのように、行きつ戻りつしながら記述されているところである。たとえば、2011 年の東日本大震災の様子を語っているかと思えば、 一転1986 年のチェルノブイリ原発事故へと遡行し、2014 年のWCC について記されているかと思えば、2012 年の会津若松市における宗教者国際会 議が触れられる。読者は立ち止まって振り返り、頁をさかのぼって時間軸を 確認する作業を余儀なくされる。さらには随所に、あたかもバロウズのカットアップのように唐突に、著者が過去に執筆した新聞への寄稿文や書評、礼 拝メッセージのテキストなどが差し挟まれており、読み進むに従って、何の連関もなく頻繁に書き割りが変化する芝居に接するみたいに、いおうようない居心地の悪さを感じてしまう。これは一見、語に対して見せた著者の厳格 さ、緻密さとはまったく相反する態度のようにも見受けられる。しかし、少々困惑しながらも読了してみると、それが実はカットアップというよりは、むしろコラージュのように、さまざまな素材を組み合わせつつ全体として一個 の統一的な図像を形成していることが理解された。では、いったい心の網膜 に映じるその統一的な図像とはどのようなものか。

川上氏は、書評や、聖書箇所を記した礼拝説教の数々を、未来への提言の 部分、すなわち後半部分に集中して配置している。それは確かに、前半部、 中盤部分の科学的かつ客観的な風情と異なり、どこか乱雑な印象を与えさえする。なぜここで書評を、礼拝説教を挿入するのか、と、疑義を差し挟みた くなる。ただ所定の頁数を稼ぐための、合理的な編集作業の一環ではないかと、勘ぐろうとすれば勘ぐれるだろう。ところが、それは決して無作為でも 場当たり的なものでもなく、実はきわめて意識的なメッセージなのである。

著者は、いまだ彼自身が「フクシマの神学」と呼ばんとする確固たる学的体系を確立し得ていない、と述べている。が、萌芽は確かに見いだしている、 と、私は考える。その生まれ出ずる手前の混沌とした何かを、この著者は、 一見何の脈絡もないように見える礼拝説教など雑多なテキストを意図的に配 列することによって、おぼろげながらも今まさに形にならんとかたまりはじ めている何かを、未分化なままに私たちの眼前に提出しているのである。だからそれは、万華鏡が作り出す図像のような恣意的な意匠ではなく、あくまでも著者の意思が結実した企みに満ちた図像なのだ。確固としたかたちでは ない。確固とはしていないが、しかしそこには何らかのかたちめいたものがあって、そこに読者は「フクシマの神学」の芽生えのようなものを看取するに相違ないのである。

あの日あの時を体験した者たちは、「わたしの3 月11 日」を内に秘めて 生きていることと思う。被災した方々やその関係者はもちろん、この国に住 まう者のほとんどが、「フクシマ」に直接、間接、何らかの関わりようで参 与している、と、確言しても、あながち誤っているとは言えないだろう。 その中には、著者川上氏のように、「フクシマ」の「現場」に立ち続けて、さらにその「現場」と「世界」と往還しながら、「新たな神学」を探求し、「核なき世界」をめざそうとする人もいる。当然ながら、川上氏とまったく立場を異にし、あるいはかえって意見の対立する人たちもいるはずだ。しかし、

たとえそうではあっても、この書物が、フクシマに対する毅然とした意見表 明の一つであることを、一読、誰もが認めざるを得ないのではないかと、私 は考える。東日本大震災の発生から間もなく5 年。これを機に、自らの「フクシマ」への対し方を改めて見つめ直すためにも、一見滑らかな風合いの本 書を手に取って、ざらついた読み心地を堪能してみてはいかがだろうか。

2015年 『キリスト教学』57号掲載