評者:大頭眞一師 ようこそ、心躍る師父たちの「食卓」へ!

20191202_01ジュセッペ 三木 一著 
佐藤弥生訳 監修者ゲオルギイ 松島雄一
師父たちの食卓で --創世記を味わう 第1章~第3章

 

評者:大頭眞一師


 

6世紀から17世紀まで「聖書の『釈義の鎖』」とでも訳すべきジャンルの書物が存在していたことを、寡聞にして本書で初めて知った。ギリシャ教会とシリア教会に多く見られたもので、頁の中央に太い字で聖書のテキストが書いてあり、まわりに師父(教父)たちの主な解釈が書いてある、という。教会は、聖なる伝統の中で聖書を読んで来た。つまり、聖書を味わうには、孤独な天才が近代批評学を駆使するようにではなく、師父たちとともに食卓につくことが正道だと考えるのである。聖書の物語は、教会の物語と切り離すことができないと言ってもよいだろう。

 

本書の著者ジュゼッペさんの試みは、「聖書の『釈義の鎖』」を自分なりに再現することにあった。ちがいは、ジュセッペさん自身の体験や現代の文化や西洋の歴史などに対する自身の思いを含めたところにある。実はこのちがいが、本書を親しみやすいものにしている。師父と共に聖書を読むときに「喜んで家を出て、外の草原に座ってすばらしい景色を眺めているような思いとイメージ」(20頁)が浮かぶというジュセッペさんと同じ景色を読者である私たちにも彷彿させるのだ。

 

そんな景色の中で、「自分から出て」世界を創造した神の愛を「愛する対象に自分を渡す」愛だと語る偽ディオシニウス・アレオパギタを右隣の席に、「世界が創造される以前において、神が世を愛さなかった『時』はない」(26-27頁)と耳打ちするシリアのイサクを左隣の席に感じながら食事が始まる。8年がかりで整えられたこの食事を、急いで読み進めてはならない。食事の目的は食事そのものにあるのであって、単なるカロリーの摂取ではないからである。師父たちに聞きながら、ジュセッペさんも口を開く。「神の似姿は人間の本質ではなく人格にあります。つまり、選択や生き方により形成される人格という次元にあるのです。」(56頁)といったつぶやきには、東方神学が躍動している。生きることは旅することである。神のイメージに造られた私たちは、そのイメージの完成を目指し続ける。そんな旅する姿こそが神の似姿なのである。

 

本書は、創世記の最初の3章を思い巡らしたものである。けれども著者の思いめぐらしは、師父たちとともに常にハリストス(キリスト)へと向かう。そのように、ハリストスが教え(ルカ24:27)、その教えをさらに教会が積み重ねてきたからである。アダムとエヴァが裸であつたことは、師父たちによれば、彼らは「栄光を着ていた」のであり、「神が彼らをお創りになった際の、あの愛に彼らはくるまれていた」という。これだけでも、私たちは神の狂おしいほどの愛にめまいを感じる。けれどもジュセッペさんは、容赦してくれない。「にもかかわらず彼らの栄光はハリストスに身を寄せる哀れな罪人の栄光に及ばないのです。」と。ああ。

 

ジュセッペさんは、自分について多くを語ることを好まないが、彼が「どんな人かと不思議に思う人のために」(22頁)少しだけ触れておく。1943年ローマで生まれたイタリア人で、ローマ・カトリック教会の修道士として来日。その後、修道会を退会、結婚、やがて日本人となった。2005年に正教会の信徒になる。知多半島で「聖書を読む会」を主宰している。

 

正教に関心を抱きつつも、完全な門外漢である評者であるが、実は本書の誕生の小さなきっかけになれたことを喜んでいる。監修者の名古屋ハリストス正教会松島雄一司祭には、数年前から初歩的な赤面するような質問をしては、優しくご指導していただいている。あるとき司祭のお知り合いの方で出版を考えておられる方がおられると聞き、ヨベルの安田社長をご紹介した次第。原稿を読んで安田さんの心が躍った結果が本書である。

 

評者は、本書が正教の方々だけの独占となることを惜しむ者である。私たちは、世界で初めて聖書を読む人間のように振る舞ってはならない。けれども師父たちの世界は、香炉とイコンの奥にあって近づき難い。ジュセッペさんは、すべてのキリストを慕う者たちに、その扉を開いて、覗かせてくれるのである。正教徒の本だから、難しいのではないか、とか「正統的」カトリック信仰やプロテスタント信仰が危険にさらされるのでは、といった心配は無用である。安心して心躍る師父たちの食卓に加わっていただきたい。

(おおず・しんいち=日本イエス・キリスト教団 明野キリスト教会牧師)