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スタンリー・ハワーワス著 東方敬信監訳
青山学院大学総合研究所叢書 

書評:「本のひろば」2014年11月号より

大学のあり方 緒学の知と神の知 
朴 憲郁(ぱく・ほんうく=当時:東京神学大学教授、日本基督教団千歳船橋教会牧師)

英語圏で最も著名な神学者の一人であり、世界的にも注目されるS.ハワーワスは、2001年の著書『宇宙の結晶粒と共に-教会の証言と自然神学』の最終章で、近代的大学論を神学的に探求した。それを発展させたものが、東方敬信監訳により共同邦訳出版された本書(原書は2007年発行)である。これは、青山学院大学総合研究所・研究プロジェクト(代表:西谷幸介)「キリスト教大学の学問体系論」(2010~2013年)の成果の一つとのことである。

評者は数年前に、近代以降の古典的大学論の名著であるニューマンの『大学の理念』(J.H.C.Newman, “The Idea of a University”, 1852)を中心とするキリスト教大学論の研究を志すある大学院神学生の修士論文指導をしたことがある。その際に、近年この分野で本格的に論じた諸文献を探す内に、東方氏を介してハワーワスの“The State of the University”に出会って、それを手にした。このたび彼の優れた大学論、いや、神学的学問体系論である北米発信の本格的「大学の神学」が日本の読者に、特に建学の理念構築とその実現に頭を悩ますキリスト教大学関係者に、広く共有されることは極めて意義深い。

神学的大学論については、P.ティリッヒ、R.ニーバー、W.パンネンベルクなどから多くを学ぶことができるが、ポストモダンの最近の神学的、世界的諸状況を鋭敏に捉えて論戦を張るハワーワスの論述は群を抜いて注目され得る。ただし、本書でそれぞれ刺激的なテーマを扱っている1章から12章までは、順序立てて構想されたものでなく、その都度必要に応じて論考したもの、論敵との自由闊達な論争、講演の原稿などを一書にまとめたものである。たとえば、第1章は3章と8章の執筆後に書き下ろしたものである。しかし、著者自身が序章で述べているように、第1章「神学の知と大学の知-探求の開始」は腰を据えた意欲的な大学論であり、他の全章を俯瞰させる内容となっている。

先に、「最近の・・・世界的諸状況を鋭敏に捉えた」と述べたが、その一例として、第8章(エクレシアのため、テキサスのため)で著者は、民主的アメリカを今なお世界に誇っているアメリカ市民とその中の自分たちキリスト者自身に向かって、2001.9.11.を踏まえた現在、「暗黒時代に生きている」と段落ごとに言い切って、それがなぜかを多様な仕方で述べる。「セプテンバー・イレブンに反応して私たちの命を捉えた悲しみについての真実な説明を提供できなかった無力は大学の失敗というほかない。『これは戦争だ』は、悲しみに対する適切な言葉ではない。・・・」(217頁)。

 第1章は、リチャード・レヴィンが1993年、イエール大学の学長就任後に行った「独立した思索の力」と題する講演を取り上げ、彼がニューマンを引き合いに出して強調した〈リベラル・エデュケーション〉を批判する。確かにニューマンは、すべての科学とは区別される哲学こそ「諸学問の学問」と信じる。しかし諸学統合の理論たる哲学の意義は、彼の次の主張においてである。「神学抜きの大学教育はまさに非哲学的である」。この点をニューマンの『大学の理念』から適切に引用したハワーワスは、他の諸学問は神学を必要とし、知識全般もしくは種々の学問的真理を保持するための条件として、神学を位置づける。もちろん神学は他の諸学問を必要とし、諸学問から謙虚に学ぶべきであるが、そのように関わりつつ、諸学を持つ大学に建設的な役割を果たし得ると、ニューマンの大学論から引き出す。

さらに、神学はもう一方で、教会に仕える至高の学問でもある。振り返ってみれば、中世ヨーロッパと新大陸アメリカにおける大学発祥の母体は、キリスト教共同体・教会であった(49頁)。しかしその後の諸経緯の中で、近代的大学において神学は適切な科目でなく、大学から排除されてきた。なぜかとハワーワスは鋭く問いつつ、論争的にその動向を押し返し、諸学の認識論的慢心に対する神学的批判を忘れない。しかしそれは、諸学を根拠づけ生かす神学の奉仕的批判である(49頁)。

本書の付論A、B、Cでは、キリスト教大学とチャペル礼拝、大学と教会・神学校との関係における今日的問題を論じていて興味深い。

ハワーワスの神学的大学論が、日本キリスト教大学、とりわけプロテスタント大学の代表の一つである青山学院大学の今後の大学論形成に少なからぬ示唆と課題を提示していることは間違いない。