誰にも希望を発見させる本

ネヴィル・タン著 金本美恵子訳

7172 「鉄人」と呼ばれた受刑者が神さまと出会う物語

 

廣瀬 薫

 

書名「7172」は、著者が凶悪犯を収容するチャンギ刑務所で服役した際の受刑者番号である。人生の道をひたすら堕ちて行った超凶悪犯罪者が、イエス・キリストに出会って救われたというストーリーから、本書にいわゆるセンセーショナルな内容を予想する方もあるかも知れない。しかしそうではない。

 主人公である著者の筆致は冷静である。自分という人間を正直に正確に誠実に見ようとしている。だからその視線は、著者個人の特殊な体験を越えて、人間とはどういうものなのか、なぜ良い生き方をしようとしても出来ないのか、そのような人間への真の希望はどこにあるのか、という普遍的な課題に届いている。

 そのため読者は誰であっても、自分の課題に引き寄せて本書を読むことが出来る。そして自分はどういうものなのか、なぜ自分が願う生き方が出来ないのか、そのような自分への真の希望はどこにあるのか、導きの光を見出せるだろう。本書は誰にも真の希望を発見させる本である。例えば私のように、クリスチャンの教育機関に仕える者にも、多くの示唆を与えてくれる本である。

  • 著者ネヴィル・タンは、キリストに出会った者の心を教えてくれる。

読者は、凶悪犯罪者が一転してキリスト者になったという著者に、人々の注目を集める自己顕示を予想するかも知れないが、そのような印象は一切無く、実際はむしろ逆である。著者は神さまの前に謙遜であり、キリスト中心に物事を見ており、聖霊に委ねて生き続けていることが明確に表現されている。その自己イメージは、自分は他の人の救いのために、このような者でも救われるのだという「見本」(第1テモテ1:16)として憐れみを受けたのだというもので、正にパウロの思いと一致している。真にキリストに出会った者は、このように神にのみ栄光を帰し、へりくだった喜びに満たされるものなのだと、私たちは澄んだ思いに導かれる。

  • 御言葉には人を活かす力があることを教えてくれる。

 著者は独房の中で、生ける神さまがなさる奇跡的な出来事を通して救いへと導かれて行くのだが、その鍵となっているのは御言葉が人を活かす力である。孤独の限界状況で、何か読む物を求めた時に隣室の囚人から「トイレットペーパー」として差し入れられたのは「ルカの福音書」冒頭の数枚だった。反発しつつも読み、祈りを試みる著者に神は答える。圧巻は、少年時代ミッション・スクールで歌った賛美歌が不思議に心に去来し、歌詞の聖句(詩篇23篇)を絶望感の中で探す著者が、たまたま開いたギデオン新約聖書が詩篇付きであったために発見し、「体毛が逆立つ」思いで読み、神の臨在を感じ、「私の全ての問題がついに終わった」安らかな暖かさに包まれる場面だ。全ての出来事を用いてみ業をなさる生ける神、その御言葉が人に新しい命を満たすことをはっきりと見せてくれる。そこからさらに出来事は展開し、驚くべきことに刑務所内の囚人たちにリバイバルが起き、礼拝の集まりが始まり、廃れていた礼拝所に人が満ち、死刑囚全員が信仰に導かれて行くのだ。

なお、御言葉が著者を活かす力を持つ、その背景にミッション・スクールの経験があったことは印象的だ。二人の教師の思い出を「同じクリスチャンでありながら、一人は残酷で、もう一人はとても親切だった」とリアルに描いているが、結局その親切な女教師の体験が、大人となって人生のどん底に堕ちた著者を神さまの御言葉と祈りへと引き戻す。それは『カラマーゾフの兄弟』の末尾でアリョーシャが、人間は幼い時の聖なる体験が生涯の支えとなるのだと語る場面を想起させる。幼児や少年を福音で育てることの大切さを再認識させてくれる。

  • 私たちの時代に希望をどこに発見するかを教えてくれる。

私たちの時代は、希望を見出しにくく、不安に満ちている。本書はそのような時代に生きる私たちが誰でも、真の希望をどこに発見出来るかを教えてくれる。私たちは凶悪犯罪者ではないかも知れない。しかし本書で私たちは自分の姿に重なる著者の姿にしばしば出会って共感を覚える。そして著者が真の希望を持ったように、今私たちの世界に必要なのは、本書が示すような希望であると示される。真の希望を求める思いを胸に本書を開く者に、著者の証しは必ず光を見せてくれるだろう。(約1739字)

(ひろせ・かおる=東京キリスト教学園〈東京基督教大学〉理事長)

(新書判・二四二頁・定価一〇五〇円〔税込〕・ヨベル)