著者の告白録であり、日本の精神風土への穏やかな眼差しに満ちたエッセイ!

大和昌平著『追憶と名言によるキリスト教入門』
(新書判・一五二頁・定価九四五円〔税込〕・ヨベル)

 本書は『追憶と名言によるキリスト教入門』と名付けられている。まさしくその名の通り、大和師の個人的なノスタルジー ── 昭和三〇年代大阪での幼少期という縦糸に、歎異抄からドラッカーまで実に色とりどりのことばの横糸が織り込まれている。織りなす糸は一篇一篇違えども、最後には必ず創造主が、イエスがすっくと立ち現れてくる。

 昭和三〇年代と言えば、今や首相が国会答弁で引き合いに出すほど世間一般に、現代の日本人が失ってしまった何ものかがあると信じられている。しかし、本書は決してそのような時代の流れに乗った懐古趣味、郷愁に浸って終わるものではない。「追憶のあの子供の頃の姿こそ、神の前に生きるために大切なのだ」という確固たるひとつのベクトルを持って書き綴られている。そう受け止めて生きているという著者の告白録でもある。

 キリストは「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません」と言われたが、私たちはこれを聞いて、幼子のような純粋無垢には戻れないと途方に暮れる。富める青年のように打ちひしがれて立ち去ろうとする。ところが著者は「一つの生涯というものは……生命の稚い日に、すでに、その本質において、残すところなく、露われている」との森有正のことばを冒頭において、すでにキリストに出会っていた「あの子供の頃」へと私たちを誘う。幼少期への扉を静かに大きく開いて、身体に刻まれた記憶の中に、その情緒的な心象風景に、聖書の光を照射する。その時、あの時代の断片、あの地域の風景が、永遠に至る道への一刹那としてよみがえってくる。人はキリストに出会い、その言葉を聞いて初めて、幼少期の真の意味を悟り得るのではないだろうか。

 その幼少期を紐解くために引用されている言葉は、東洋の文献に限らず、シュルレアリストから学生までと驚くほど広範に及ぶが、やはり特筆すべきは、仏教への洞察を含めた日本の精神風土に対する穏やかな眼差しではないだろうか。熱心なクリスチャンであればあるほど、他の宗教文化の一切を冷ややかに突き放そうとする傾向にあるが、その実私たちは、幼少期の柔肌に染みこんだ線香への郷愁や、仏壇の前で合わせた小さな手の記憶とどう折り合いをつけたらよいのかわからないまま、自分の一部を置き去りにしているのかもしれない。

 しかし大和少年の追憶の世界を味わううちに、異教社会の中に育った者が、やがてキリストに出会って新たな人生を歩み出すことは、木に竹をつぐような脈絡のないものであるはずがないと思わされた。むしろそれは、母の胎にいる時から、存在の始まりから、「あなたは私の愛する子」との永遠からの呼びかけがあったことを思い起こし、その声を聞き直すことではないだろうか。イスラエルの民にとって旧約律法がキリストの新しい契約がもたらされるまでの揺籃であったように、異教の文化やこの世界の経験さえも、キリストに出会うまでの揺籃になり得るのではないかと思わされるのだ。

 それは決して、偶像礼拝への愛着でも、どこから登っても頂上は同じというような宗教多元主義でもない。いや却って、著者の筆致からは圧倒的なキリストの卓越性、異質性が迫ってくるのだ。その対比は実に鮮やかで揺るぎがない。──平安を勝ち得た古仏を思い巡らす中で、平安を与えるキリストに出会う。此岸から彼岸へと渡らねばならない仏教の定めを見つめて、人となって彼岸から此岸へと来てくださったキリストを見いだす。「少年老い易く、学成り難し」と孔子が説けば、学を成すよりも子供の心で私のもとに来なさいとキリストが招く──。

著者は、人生の荒波や叡智、宗教の原理を突き抜けたその先にあり、その根源にあるキリストを常にまっすぐに見据えている。涼やかな少年の眼差しをもって──。

 筆者も大和少年に手を引かれて、自身の追憶をキリストによって読み直そうと思う。キリスト教は西欧の宗教だと思っている人にも、キリストに従おうと幼少期を切り捨てて来た人にも、幼子としてくぐるキリスト教への入り口として誇りを持って本書をお勧めしたい。

(よしかわ・なおみ=シオンの群教会牧師・聖契神学校教師)