2015_11_01

マルク・リエンナール[著]
時任 美万子[訳]
新書判・232頁・本体1,100円+税

フランスはリヨンにある福音的な出版社オリベタンと、東京は本郷にある良心的なヨベル社が繋がって、小粒な真珠のような本が世に出た。表題通り、新旧両派間、同時にプロテスタント諸派の対話促進のためには参考書、あるいはヨーロッパで2017年宗教改革500年を目指して進められている記念行事へは予習書ともなり得る新書である。

著者はマルク・リエンナール博士。ストラスブール大学名誉教授にしてルター派国際審議会神学者。エキュメニカルセンター教授も務め、ロイエンベルク条項作成にも携わった。

しかし本書は、氏の牧師としての深い敬虔に培われた優しく力強い説教と慰めに充ちた黙想集である。たとえば序章「プレリュード」では、日本ではまだなじみにくい「霊性」という言葉を2世紀のテルトゥリアヌスに帰し、「オルガンは風無くして鳴らない、ヨットは風無くして走らない」とわかりやすく解き、「霊性とは聖霊の活動に自らを開いていくこと」と、自らのアイデンティティ(仏語ではイドンティテ!)即ち境を越えていく事を薦める。

第一部はこの季節には嬉しい教会暦による「待降節」説教から始まり、第二部は難民、平和、宣教、教会、ディアコニア、1968年5月(団塊世代には希望を与える!)等をとりあげ、現代ヨーロッパを切り取ってみせる。閉塞感つのる今の日本に方向性を与え、また新旧両派の行く道を指し示す書である。

書評

評者:久米あつみ師(くめ・あつみ=仏文学者)

カルヴァンを通じての友人、時任(斉藤)美万子氏の訳でマルク・リエンナールの説教集が出るというので心待ちにしていた。表題はエキュメニズムそのものを表わしているので、期待はおのずからエキュメニカルな内容に向かうが、著者は必ずしもそのことをめざしているのではない。声高に教会一致が叫ばれることもなく、旧・新教会それぞれの教義の相違や優劣が主張されることもない。彼の意図は「前辞」の中にこう書かれている。
わたしの目には福音宣教はその間のテキストが目立つようにとふたつの極を持つ。ひとつめは正確かつ説得力あるテキストの釈義と、それをその時代の社会的、政治的、個人的、人格的な挑戦にすることとの間の緊張関係である。……もう一つの「極」は直説法と命令法である。……グローバル化して人々への宣教は……頭と、そして心に、感覚に訴えることが必要なのだ。つまりは意志にである。なぜならそれは動くことを欲し、行為及び変化に向けて始動するからである」。

この「ふたつの極」を踏まえた説教、特に前半の教会暦に沿った説教は、メッセージが明確で、慰めと励ましに満ちている。

昇天記念日の説教の中で著者はこう語る。

「確かに我々は、この哀れな地は、歴史の風に吹きまわされ、悪の力に振り回されると知ってはいるが、十字架につけられ復活した方の手の中にある、とも知っている。以来、キリストは神の支配に参与している。

同時に地上の支配には限界があり、相対化されるのである。最強の全体主義であってさえも。『王なるキリストが支配し、すべてを足もとに置かれる』と歌いつつすべての権力は限界を持ち、いかなる地上の権威も聖化すべきではないと我々は宣言する。そもそも全体主義権力が昇天の祝いを好まないのはおどろくことではない。アルザスがナチに支配された時には、禁止されたことを私は思い出す。多くの牧師たちが警察に捕らえられ、ある者たちは囚人とされた。「昇天祭」を祝ったという理由で。」

この条りを読み、また第二部の記念礼拝他での説教を読んだとき、評者は深く「説教が語られる〈場〉」について感じさせられた。ドイツとフランスのはざまで何遍も属する国が動くという歴史の中で、揉まれ苦難を負ってきたアルザスの首都、しかしまた欧州議会の存在が示すようにヨーロッパの中心のひとつでもあり、エキュメニズムがある意味実現されてきた寛容な町ストラスブールで、カトリックの大聖堂やプロテスタントの会堂の講壇から(サン・ジャック・コンポステラ巡礼途中、コンク大修道院での説教もある!)発せられる説教だからこそ、静かな口調の中からも噴出する激情がうかがわれ、時代、場所を意識しながら聴衆は聞き入るのだ。

顧みてわが国ではどうだろうか。置かれた場を意識しつつ世界へと開かれていくといった実感を、私たちは礼拝、説教の時間に経験するだろうか。考えて見ればそこが最先端の流行の場であろうが住む人とてまばらな山奥であろうが、説教が語られる場は歴史を持つはずだ。ある時は繁栄の驕りを、ある時は衰退の寂寥を、ある時は裏切りや不信を経験した場であるかもしれない。そうした〈場〉についての格別の感慨を持たない私たちは、ある意味〈根無し草〉なのではなかろうか。根を一つの〈場〉にもっていないがゆえに、境界を越えて広がって行くことも出来ないのではあるまいか。そんなことを思わせる著者の姿勢はまことに自然であり、真理は単純明快だと言って、共なる賛美を新・旧両教会に呼び掛ける。


唯一著者に物申したいことがある。あなたは「カルヴァンはニコデモを好まなかった」(86頁)と言われる。カルヴァンが斥けたのはニコデモではなく、回心前の、夜こっそりとイエスを訪ねてきたニコデモの行為をまねてどっちつかずの態度を取り続ける「(自称)ニコデモの徒」であって、彼自身はニコデモのその後の行動をちゃんと評価している。(本のひろば掲載)